1990年代は米国の一人勝ち?
ITバブル崩壊前の10年というのは、米国の繁栄の時代であり、米国一人勝ちの時代といっても過言ではありません。株価は上昇し、米ドルの信用は高まり、世界中のマネーが米国へ還流しました。
米国民の多くは、「株を購入すれば必ず儲かる」と考え、個人金融資産の2分の1以上を株や投資信託に投じたのでした。
それが株高を演出し、資産効果が生じて消費が増え、さらに好景気に至るという好循環を生んだのです。
2000年問題とFRBの金融緩和
当時のアラン・グリーンスパンFRB議長は、ファンダメンタルズ分析では説明することのできない株高現象のことを「根拠なき熱狂」と呼んでいましたが、これについては特に規制することもなく市場にまかせていました。
実は、1999年時点において、グリーンスパン議長が心配していたのは、コンピュータが誤作動を引き起こす可能性が指摘されていたコンピュータの2000年問題のほうだったと言われています。
IT技術の発展を最も享受していたのは金融機関であり、2000年問題による混乱は、金融危機に発展する可能性があったからです。そして、グリーンスパン議長は、万が一の金融の混乱を想定して、通貨供給量を増やすことになります。
2000年問題は大きな混乱もなく乗り切ることができたものの、今度は過剰になった通貨が結果的にITバブルを形成してしまい、ナスダック総合指数は2000年3月10日には5048ポイントの天井を打つことになったのです。
このため、FRBは過熱する経済を沈静化させるために金融引き締め策を採ります。すると、2000年5月には、FFレート(米国の短期市場金利)の誘導目標を6.5%まで引き上げたことにより景気の急減速が鮮明になり、市場からは利下げを求める声が上がるようになります。
2001年1月3日に、FRBは臨時のFOMC(連邦公開市場委員会)を召集し、0.5%の利下げを決定します。
ところが、9月11日には同時多発テロが勃発して、米国経済や株式市場、ドル相場は、一気に冷え込んでいきます。
FRBはこの年11回連続利下げを行い、12月11日には1.75%というドラスティックな金融緩和策を摂ることになるのです。
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